ゲームと想像力
小学校1年生の時、お年玉で買った初めてのゲーム機がファミリーコンピューターだった。
当時は町内で持っている人はほとんどいなかったし、ソフトもまだ片手ほどしか発売されてなかった。(ちなみにコントローラーのボタンは押したら戻ってこない四角ボタンだった)
そんな中で一緒に買ったカセットがドンキーコング。
他にポパイくらいしか選択肢がなかったのもあるが、天邪鬼な僕は世界的に有名な水夫のゲームよりも、腹が出たヒゲオヤジが飛んだり跳ねたりする姿に心惹かれたのだろう。

とにかく僕はゲーム黎明期と言える時代にファミコンと共に育った。
当時のゲームとは画質も音楽も今と比べようもないほどショボかったけど、ファミコン持ってるだけで普段は遊ばない遠くの友達が家に来たり、親戚のおじさんと一緒に遊んだり、一種のコミュニケーションツールみたいな役割を果たしてた。
やがていろんなゲームを遊ぶにつれ、こんなゲームがやりたいなとか、ここがこうならもっと面白いだろうに、といったアイデアが芽生えてきて、それをノートにひたすら描くようになった。
そういえば当時からトランプにしてもドッジボールにしても、オリジナルのルールを加えたりすることが好きだったから、きっと何かを作って人を楽しませたいっていう欲望が根底にあったのかもしれない。
もともと一人っ子だったせいもあって、友達と遊べない時間は家で一人きり空想にふけることが多かったから、ゲームはそういった空想を増長させるのにもってこいだったのだろう。
ドンキーコングはオヤジと思しき主人公の年齢も、ドンキーコングがレディをさらった訳も、その女性のルックスも、知りたいことは何ひとつ書かれていない。
だけど大した説明もないまま正体不明のヒゲオヤジがハンマーを振るう姿の方が嫌でも想像力をかき立てられないだろうか。
最近のゲームはグラフィックも本物と見分けがつかないほどリアルだし、キャラクターのセリフも声優さんが感情を込めて喋ってくれる。
映画のような美しいムービーを眺めておけば主人公の年齢やルックスはもちろん、敵が何者でどう考えているのかさえ手に取るようにわかる。
だけどそこにはプレイヤーが想像力を膨らませる余地はない。
そういえば昔からRPGが好きなのに最近FFをやった記憶がないのは、主人公が自分語りをしないドラクエに比べて、主人公が意思を持って勝手に話を進めていくFFに、想像する余地を見つけられないからかな、なんて思ったりした。